1.イエスの埋葬
・イエスは金曜日の午後に息を引き取られ、遺体は、あわただしく埋葬された。十字架に立ち会った婦人たちは、この一部始終を見ていた。
―マルコ15:46-47「ヨセフは亜麻布を買い、イエスを十字架から降ろしてその布で巻き、岩を掘って作った墓の中に納め、墓の入り口には石を転がしておいた。マグダラのマリアとヨセの母マリアとは、イエスの遺体を納めた場所を見つめていた。」
・婦人たちは日曜日の夜明けと共に墓に行った。墓についてみると、石が取りのけてあり、イエスの遺体はなくなっていた。マリアは誰かがイエスの遺体を取り去ったと思い、弟子たちのところに走った。
―ヨハネ20:2-3「『主が墓から取り去られました。どこに置かれているのか、私たちには分かりません』。弟子のペテロとヨハネが墓に走った」
・弟子たちが墓をのぞいて見ると、空であり、遺体はなかった。弟子たちは、何が起きたのかわからないままに、家に帰った。この時、弟子たちはまだイエスの復活を信じていない。
・マリアも弟子たちに遅れて、再び墓に来た。彼女は、弟子たちが帰った後も、あきらめきれない思いで、墓の側にたたずみ、ただ泣いていた。そこに天使が現れた。幻を見たのであろう。
―ヨハネ20:11-13「マリアは墓の外に立って泣いていた。泣きながら身をかがめて墓の中を見ると、イエスの遺体の置いてあった所に、白い衣を着た二人の天使が見えた。・・・天使たちが、『婦人よ、なぜ泣いているのか』と言うと、マリアは言った。『私の主が取り去られました。どこに置かれているのか、私には分かりません。』」
・そこにイエスが来られたが、マリアはその方がイエスとわからず、園の管理人だと思った。
―ヨハネ20:14-15「後ろを振り向くと、イエスの立っておられるのが見えた。しかし、それがイエスだとは分からなかった。イエスは言われた。『婦人よ、なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか』。マリアは、園丁だと思って言った。『あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか教えてください。私が、あの方を引き取ります』」
・その時、イエスが「マリア」と言われた。その声でマリアはその人がイエスだとわかった。マリアは幻覚ではなく、肉のイエスに出会い、イエスの復活を信じた。
―ヨハネ20:16 「イエスが『マリア』と言われると、彼女は振り向いて、ヘブライ語で『ラボニ』と言った。『先生』という意味である。」
2.復活の証人になったマリア
・復活のイエスに出会った最初の人は、マグダラのマリアであったと聖書は伝える。女性に証言能力を認めないユダヤ社会においては、驚くべきことだった。弟子たちもイエスに出会ったというマリアの言葉を信じない。
―マルコ16:9-11「イエスは週の初めの日の朝早く、復活して、まずマグダラのマリアに御自身を現された。このマリアは、以前イエスに七つの悪霊を追い出していただいた婦人である。マリアは、イエスと一緒にいた人々が泣き悲しんでいるところへ行って、このことを知らせた。しかし彼らは、イエスが生きておられること、そしてマリアがそのイエスを見たことを聞いても、信じなかった。」
・弟子たちが復活を信じなかったと言う証言はルカにもある。復活とはそれほど信じがたい出来事なのだ。
―ルカ24:10-11「それは、マグダラのマリア、ヨハナ、ヤコブの母マリア、そして一緒にいた他の婦人たちであった。婦人たちはこれらのことを使徒たちに話したが、 使徒たちは、この話がたわ言のように思われたので、婦人たちを信じなかった。」
・ペテロやヨハネは、空の墓を見て、不思議に思いながらも、自分達の家に帰っていった。マリアはイエスのいない空間に帰ることが出来ない。マリアは泣き続け、イエスに出会う。イエスは泣いている者に、無関心ではおられないからだ。復活のイエスとの出会いを通して、人は泣くものから笑う者にされる。
―詩篇126:5-6「涙と共に種を蒔く人は、喜びの歌と共に刈り入れる。種の袋を背負い、泣きながら出て行った人は、束ねた穂を背負い、喜びの歌をうたいながら帰ってくる」
・マリアはたくさん泣いた。だから慰められた。人は涙を通して神に出会うのだ。
―ルカ6:20-22「貧しい人々は、幸いである、神の国はあなたがたのものである。今飢えている人々は、幸いである、あなたがたは満たされる。今泣いている人々は、幸いである、あなたがたは笑うようになる。人々に憎まれるとき、また、人の子のために追い出され、ののしられ、汚名を着せられるとき、あなたがたは幸いである。」